
趣味と私
トレッキングと私 アンナプルナ周辺トレッキング
ロイヤル レペイジ社 牧野憲治
 カグベニから神秘的なアパームスタングを背景に
ヒマラヤの山をトレックしたいという長い間抱いていた思いが具体化しはじめたのは、私事ながら馬齢六十台半ばを過ぎた昨年の夏ごろでした。トレッキングに関する情報を聞いたり、調べたり、セミナーに行ったりした結果、アドベンチャーツアー会社が企画したグループトレックに参加するのではなく、ワイフと2人でガイドとポーターを雇って、アンナプルナ周辺を歩こうということに決まりました。
ネパールから入るヒマラヤ地域トレッキングというのは、サー・エドモンド・ヒラリーがエベレストに登って以来、次第に人気を集め、近年ではひとつの流行現象を呈するに至っています。トレッキングのエリアは、概してネパール東北のエベレスト地域と西北のアンナプルナ地域に分かれますが、各地域ともいろいろなトレッキングルートがあり、それぞれ難易度、距離などが異なります。シーズンはモンスーン明けの10月初旬から11月下旬と、冬の後の3月中旬から5月下旬頃までです。

朝焼けのダウラギリ |
私たちは今年3月3日から14日まで、俗に「アンナプルナサーキット」と呼ばれるルートを、ポカラという町から時計周りに半周することにしました。このトレックは西側の標高8167メートル(世界第7位)のダウラギリと東側の7061メートルに達するニリギリ連峰、8091メートル(世界第10位)のアンナプルナの間を縫っていく世界最深の渓谷を流れるカリガンダキ河に沿って歩くものです。
トレーニングは昨年の12月1日から今年の2月末まで3ヶ月間、ジムでトレーナーに組んでもらったプログラムを忠実にこなしました。高度(3000〜4000メートルを想定)に関しては、トレーニングのすべがないので不安でしたが、まあ高山病の薬など持って行って、だめなら回復するところまで降りてこようというイージーゴーイングな心構えで行くことにしました。 それは以前、ペルーのクスコからマチュピチュまで降りてきて、完全に回復した経験があったためです。
ネパールという王国は、インドの北側に隣接、緯度からいえば亜熱帯に属し、ポカラの町(高度850メートル)は3月初旬でも日中最高気温は20℃を超えていましたが、一旦山に入りますと高度が上がるにつれて気温は300メートルごとに約2℃下がってきます。2500メートルを超えるころには、夜の気温は0〜−10℃ということになります。トレック中はTシャツ、半ズボンになったり、朝夕は高度が上がると冬仕度、さらに雨や強風などにも備えなければならないので、トロントのダウンタウンにあるMountain Equipment Coopという専門店にしばしば通い、エキスパートの意見を聞きつつ衣服を含めていろいろなものを買い整えました(ちなみに、夜間野外のトイレに行くなどのときに頭につける炭鉱夫ランプは、この夏に起こった北米大ブラックアウトのときも大いに役に立ちました)。なかでも最も重要なのはトレッキングブーツ、そしてそのブーツに十分慣れること。私たちは2ヶ月以上の間、トレーニング中にブーツを履いてすっかり馴らし、現地へ向かうときも飛行機の中でもずっと履いていました。他のものは紛失しても何とか現地で代品を調達できるでしょうが、この馴らしたブーツをなくしたらトレッキング中止という事態に至ることも十分考えられますので、他の荷物と一緒にチェックインしなかったわけです。
さて、私たちの選んだルートは、いわゆる「ソルトルート」といわれ、昔からチベットより塩を運ぶのに使われた道です。その交易に携わる人達とロバ(ドンキーではなくミュール)のための宿場ができ、それが特に近年のトレッキングブームのため、数も増え質もやや向上してきました。私たちは最初考えたテントではなくこの宿(俗に「テイハウス」と呼ばれています)を利用することにしました。かなり原始的な設備で、室温は板一枚隔てた外と同じですから、夜はポカラでレントしてきたサブゼロ・スリーピングバッグにスキージャッケットを着たままもぐりこむこともありました。この道は別称「ミュールハイウェイ」とも言われていますが、その名に恥じず険しい狭い山道で、時々このミュールの部隊(多いのは50頭以上も!)に出くわすことがあります。そんなときは山側(絶対に谷側ではない!)に張り付いてやり過ごすことになります。幸なことにミュールは皆ベル(それぞれ音が違う)を首にぶら下げているので、遠くからキンコラカンコラやってくるのがわかります。

村人達 |
いくら話に聞いても調べても、実際にやってみないとわからないというのはこのトレックの場合にも十分当てはまりました。たとえば、2日目、高度1500メートルのヒレーから、でこぼこ急角度の岩道を一挙に高度2700メートルのゴレパニまで登ったときは、予想をはるかに越えた試練で、夕暮れの薄明かりの中に最初のテイハウスが見えたときは足腰の力がなえ、そこからはもう一歩たりとも先へいけないと真実確信しました。ガイド君はあと10分登るともう少しましなテイハウスがあると薦めてくれましたが、たとえそこがヒルトンであったとしても、私たちの答えは 「NO!!!」でした。しかし翌朝、朝日に輝くダウラギリ連峰を目の前に見て元気回復。続く2日間は、高度1100メートルまで登山杖で体を支えつつ急降下。ロードダンドラン(西洋石楠花)の森林を通り抜けて、露天風呂のあるタトパニへ到着。ここで2日間温泉に浸かって休養し、次の登りに備えました。
テイハウスでの食べ物は、地元の野菜を薪火のストーブで料理したものが多く、スーパーマーケットの野菜の味に慣れた舌にショッキングなおいしさをもたらしてくれました。恐らく、ふんだんにあるミュールの落し物を使ったオーガニック農法によるものだと思われます。また、アップルパイやスイス料理を借用したポテトロステイなどもエンジョイしました。ちなみに、ネパールのお国料理はダルバットというご飯とカレーの料理。
 カリガンダキ河原からジョムソムの町とダウラギリ、トウクシェピークを望む |
小さな飛行場のあるジョムソムから強風のなか、中世の村カグベニに向かう途中、広大なカリガンダキの河原に立って、河の轟々たる響きを聞きながらダウラギリ連峰、ニリギリ連峰などを見上げていますと、大きな地球とその上に立っている蟻のように小さい自分をことさら実感します。今回はイラク戦争直前、それにネパール国内におけるマオイストのゲリラ活動などが大きく影響し、トレッカーの数は極端に少なく、見渡す限り私たち4人とヒマラヤの山々だけという機会に多く恵まれたのは幸運でした。
夕方テイハウスに入りますと、やることはあまりありません。炭火のコタツ方式のテーブルを囲んで、薄暗い明かりの中、地元の酒を飲んだりしながらガイドやポーターの人達、時には他のトレッカー達といろいろな話をしますが、妙に日本の終戦直後の雰囲気を思い出しました。前面の足腰などはあったかいが背中襟首などはうそ寒いというセントラルヒーテイングでは味わえない感覚、炭火のにおい、節電の暗さ、ドブロクのように濁ってドブロクのような味がする地ビールなどのせいだと思われます。戦後の風景といえば、タトパニで、とある雑貨屋に立ち寄った時、店番をしていた主人がガラリと店の奥の壁棚を回しますと、そこはもう彼らの居間で、奥さんが胸をはだけて赤ちゃんにお乳を飲ませていました。彼女は私たちを見ても全く動ぜず、旦那にあれこれ指示を与えていました。この風景は一瞬、戦後東京の電車の中でお母さん達があたりまえのように赤ちゃんにお乳を飲ませていたのを思い出させました。
カンフィーなアメリカ文明からちょっと抜け出す私たちの旅、次回の目的地は、どうやらチベット方面ということになりそうです。
≪著者プロフィール≫
牧野憲治 東京深川生まれ、千葉県館山で黒潮に揉まれて育つ。トロントの大学卒業後、トロントの高校教師、タイム社の東京駐在員を経て1972年 ロイヤル レページ社に入り、主に日本企業担当、商工業用不動産を扱って現在に至る。 子供は大学生と会社勤務の二女。 旅の他に、絵を描いたり、囲碁、ゴルフなどやります。
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