思い出の街角



ハチ公まえにて

思い出の街角 「渋谷駅前 ハチ公銅像」
トロント日本商工会 中島章爾


東京での有数の待ち合わせ場所、渋谷駅前ハチ公銅像は僕にとっては懐かしい思い出の街角だ。 学生時代には友人と待ち合せ場所だったし、また社会人となって千駄ヶ谷の独身寮に暮らした時も、彼女達(!)とのデートの待ち合わせは何故か新宿ではなく、渋谷駅ハチ公前だったのだ。

昨年11月に一時帰国した時には、駒場の日本民藝館を訪れたついでに、懐かしいハチ公の銅像に再会した。ハチ公の背中にそっと手を触れたら、そこで待ち合わせた彼女達の若い、溌剌とした笑顔や姿が走馬灯のように浮かんで来るのではないかとふと思った(日産MAXIMAのテレビコマーシャル風に?)が、ハチ公は台座の上に座っており手は届かなかった。

<ハチ公との因縁>
駒場で生まれ育った僕は、幼稚園へ、小学校へと毎日渋谷駅で省線(山手線)に乗り換え池袋へ通っていたから、ハチ公の銅像には毎日お目に掛かっていた。ハチ公が死んだ時には僕は未だ生まれたばかりだったから、この有名な犬には会ったことがないのだが、兄達や母は何度も見たことがあるそうでハチ公のことはよく話しに聞いていた。

<うちのハチ>
これに加えて、小学生の時には駒場のうちでは「ハチ」という秋田犬を飼っていて、よくこの犬を散歩に連れて行った。ハチは赤毛で大きく(小学生の僕にとって)、力も強く、引きずられて苦労した記憶があるが、とてもやさしく人懐っこい犬で、よく一緒に遊んだ。勿論このハチは「忠犬ハチ公」にあやかって我家で命名したものだ。

このハチは太平洋戦争かたけなわになると軍に徴用されてしまった。ある日学校から帰るとハチの姿はなく、母からは「ハチは満州で戦う兵隊さんの外套や帽子になるのよ」と聞かされ、5歳年上の兄と涙に暮れた。こんな訳で、「忠犬ハチ公」と我家の「ハチ」の2頭の秋田犬のイメージが、僕の脳裏には重なり合って焼き付いている。

<忠犬ハチ公>
ご存知かと思うが、この「ハチ」は大正12年(1923)11月生まれの牡の秋田犬だ。 生後50日前後で秋田県大館市から20時間かかって東京帝国大学農学部教授の上野英三郎博士のもとに到着したのち、上野博士に可愛がられ、現在の渋谷東急デパート裏にあった上野邸から駒場の帝大農学部校門へ、また、博士が農商務省や内務省に出勤するときは渋谷駅まで送って行き、夕方には朝送り出した場所に迎えに出るという生活だった。が、博士はある日出先で急死し、ハチは主人を失う。その日ハチは駒場の農学部校門まで博士を迎えに行ったのだが、夜になっても博士の姿は見えず、ハチは淋しく帰宅する。家の中の異常な騒ぎに変化を感じとり、3日間は何も食せず、4日目には博士を探してハチは渋谷駅に出かけている。その後上野家の家庭の事情で、飼主が度々変わったが、しばらくしてまた渋谷近辺に戻ってくると、渋谷駅に出かけ人待ち顔に座るようになった。雨の日も、風の日も、また夏の暑い日も、雪の日も改札口に座り続けたという。


晩年のハチ公
写真原本:大館市立中央図書館所蔵
前からハチを知っていて、立派な秋田犬だと思っていた日本犬保存会の斎藤弘吉氏が、渋谷駅で邪魔者扱いされているハチを見て、ハチの事情を人に知って貰い、労わって貰いたいと思い朝日新聞に寄稿したところ昭和7年(1932年)10月4日付けの新聞には「いとしや老犬物語―今は亡き主人の帰りを待ちかねる7年間―」と大きく報じられた。ハチは一躍有名になり、渋谷駅でも小学生、駅員、売店の売り子さんにもやさしく可愛がって貰うようになった。この頃「ハチ公」との尊称・愛称で呼ばれ始め、いつの間にか「忠犬」のタイトルが付くようになってしまった。

昭和9年(1934年)には、日本全国からの募金で作られたハチ公の銅像の除幕式が行われ、
ハチ公自身も出席している。自分の銅像の横でハチがはにかんでいる写真が残っている。 ハチは昭和10年(1935年)3月8日その幸薄い一生を終えた。享年13歳(数え年)だった。 ハチは普通行かなかった駅の反対側、それも駅から離れた路地でひっそり死んでいた。 死因はフィラリア病が心臓に侵入したせいだった。

渋谷駅前では、いまでも命日の一月遅れ、4月8日に「ハチ公祭」を催している。今年はハチ公の70周忌にあたるので、きっと大勢の人が集りこの薄幸な犬を偲んでくれたことだろう。

<ハチ公は純粋の秋田犬だったか>
さて、最近までハチ公について疑問に思っていたことがある。 一つは、銅像のハチ公の左耳が垂れていることだ。誰でも知っていることだが、純粋の秋田犬なら、耳は三角形でピンと立っていなければいけない。また最近の標準的な秋田犬、つまり品評会で入賞するような犬を見ると、体型が「ハチ公」やうちにいた「ハチ」と何となく違うような気がするのだ。この疑問は最近になって解消した。

まず「ハチ公」の若い時の写真を見ると左耳もピンと立っている。ある時野犬に噛み付かれ、そのせいで垂れてしまったらしい。

<北米の"AKITA">
体型が一寸違うという問題の答えは次の通りだ。 秋田犬は昭和6年(1931年)以来天然記念物としての指定を受けている。徳川時代、明治・大正時代には秋田犬が闘犬として飼育されることが多く、強くするために土佐犬などとの交配が盛んであった。天然記念物指定以来、本来の純粋な秋田犬に戻す努力が続けられて来たが、「ハチ公」や「ハチ」の時代、昭和初期から戦中、戦後にかけてはハチ公タイプが標準的秋田犬であった。

太平洋戦争中、秋田犬とその飼主たちは大変な苦労をなめた。何しろ、人間さまもろくに食べるものがない時代に、大食いの秋田犬を食べさせるのは容易でなく、戦後に生き残った秋田犬は極少数であった。戦後の物騒な時代に番犬としての特性が買われ、一寸した秋田犬ブームが起こり、昭和20年から30年には繁殖が盛んに行われた。

これらの多くが米国進駐軍の軍人により北米大陸に連れ帰られ、現在の北米の"AKITA"の主流となっている。北米の"AKITA"は日本の「秋田犬保存会」の標準型とは、形、姿、色とも異なって来ている。しかしながら、戦前、戦後間もなくの秋田犬のイメージはむしろ現在の北米の"AKITA"に近かったようだ。案外、「ハチ公」や「ハチ」に似た犬には北米で出会えるのかもしれない。

<秋田犬を守れ>
ところで、いま日本では秋田犬が減り続けているそうだ。家の中で飼いやすい小型犬に人気が集り、平均で体高60〜70センチ、体重30キロの秋田犬は敬遠されがちだ。また、秋田犬の愛好家の高齢化が進んだことも原因という。

こんな訳で、地元の秋田県でも最近は"珍しい存在"となりつつあるとか。愛好家よ、頑張って秋田犬を守ってくれ!

<終わりに>
僕はカナダ永住を決めたので、もうあのハチ公を眺めながら人を待つこともないのは淋しいが、今度日本を訪れる際には「ハチ公」の故郷大館市を訪れ、秋田犬の仔犬を一匹譲り受け、トロントで育てようと思っている。秋田犬と再び一緒に暮らせることは嬉しいことだし、また一匹の秋田犬を育てることが秋田犬の保存や普及にも役立つと思うからだ。


最近の秋田犬(吉美号)
写真提供:ハチ公クラブ

ハチ公クラブウェブサイト:http://www.f7.dion.ne.jp/~hachiko/hachikotop.html

≪著者プロフィール≫
中島章爾(トロント日本商工会専務理事)
1982年カナダ富士銀行社長として来加。富士銀行トロント駐在員事務所長を経て1989年8月より現職。家族:妻・イルゼ、長女・爾奈、次女・奈々(3人ともドイツ生まれ)、趣味:テニス、ゴルフ、ガーデニング

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