リレー随筆

 

人生を変えた旅

近鉄インターナショナル  関口秀夫


なぜカナダに住んでいるのかと問われることがある。答えは単純で、私の妻はカナダ人なのである。もし妻がアメリカ人であれば、米国に住んでいるかも知れない。

実際カナダに住む前には、遊びに来たことさえなく、ここに一生住むなんて考えたこともなかった。英語(強いて言えば国語も)の勉強が嫌いな自分が、英語圏に住むなんて全く信じがたいことだったのである。

すべての始まりは、学生時代に親友と沖縄に行ったことである。30年ほど前にさかのぼるが、まだ国産第一号の旅客機YS11が現役の頃だ。生まれて初めてジェット機に乗り、沖縄へ。

那覇空港に着くやいなや、腹ごしらえに有名な豚料理をトライしてみようかと思ったが、経済的理由にてそばにすることにした。最初に驚いたのが、関東ではそば汁は醤油で黒っぽいのが当たり前だが、沖縄で食べたそば汁は透明だったのが、未だに印象に残っている。30年前の沖縄は、車がカナダと同様右側を走っていた。バスを待つ際や乗車の際、変な感じを受けたのを覚えている。方言は日本語には程遠く、"外国"の感が強かった。

この旅行ではいろいろ得るものがあった。また人との触れ合いのすばらしさに惚れて、それまではエンジニアになるのを希望していた自分は、旅行業界に就職を決心したのだった。

話がそれてしまうが、この友人はすでに"あの世"の人となってしまっている。彼は子供の頃、父親を癌で亡くしているが、彼も同じ癌で命を落としてしまった。友人の死を知ったのは、死亡後1年か2年経った後であった。毎年欠かさず年賀状をもらっていたが、2、3年届かないので、おかしいなとは感じでいた。ある年、奥さんから年賀状が届き、彼の死亡を知らされたのだった。学生時代に親父なしで育った彼が、自分の子供には同じ思いをさせたくないと、言ったのを今でも覚えている。彼の子供も同じ運命かと思うと、とてもつらい思いがする。

学校を卒業すると、予定通り旅行会社に就職した。残業、仕事後の社交で毎日遅くなる日々が続く。若僧の私は、このまま一生を終えるのは"つまらない"と思い、外国行きを考えた。人生70歳としたら、2年ほどは(35分の1)外国に住んでもいいのではと思ったのだ。英語以外の外国語ができるわけでもないので、まず英語圏に絞り、調査を始める。有力候補は英国。現在のように留学斡旋業者は少なく、自分でいろいろ調査をする必要があった。その頃ちょうど、私が勤めていた会社の社長の友人が、ニュージーランドから日本に遊びに来ていた。この方は現地で旅行業を営んでいるというので、早速紹介してもらった。そして話がとんとん拍子に進み、労働許可を取得。

現在は日本とニュージーランド間には直行便があるが、その当時は香港、シンガポール、またはシドニー経由にてニュージーランドに入るのが一般的であった。カンタス航空に乗り、私はまずシドニーに行った。この旅行が自分にとって初めての海外旅行だった。見るものすべてが新鮮に映った。

シドニー空港に到着すると、スプレー缶を持った人が乗り込んできて、早速スプレーが始まった。オーストラリアは農業国なので、昆虫、細菌等が入り込まないよう、このスプレーで"殺す"のが目的なのだそうだ。日本を出発したのが1月、南半球にあるオーストラリアは夏なので、空港で働く人は夏服を着ていた。最初にびっくりしたのが、大の大人が半そで、半ズボンでハイソックスをはいていたこと。日本ではちょっと信じられない光景だったのが、私の脳裏に焼きついている。

ニュージーランドには結局7年弱住んでしまったが、ある冬、3週間の休みをとり、日本経由でヨーロッパに出かけた。日本からはJAL便で、アンカレッジ経由にてロンドンにたどり着いた。あの当時はヨーロッパへの直行便はなく、すべてアンカレッジ経由であった。この空港で、そば、うどんを食べたことのある方は多いのではないだろうか。

ヨーロッパでは、トラファルガー会社が主催するロンドン発19日間のヨーロッパツアーに参加した。このツアーの参加者の一人が、私の妻なのである。


次回は三浦ボイラー社、吉田社長にお願いしております。

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