リレー随筆

Mr. Okiura 

冬のカナダの楽しみ
眺めるだけでも楽しめるアンティークショップ巡り
"北米は消費文化の発祥の地だと思っていたが・・・"


阪急交通社トロント駐在員事務所 沖浦 吉恭


前任地のニューヨークからトロントに異動してきて1年半が過ぎた。着任当初はよく「ニューヨークのようなexciting cityと比べたら、トロントはboringだろう」と聞かれたが、私はそうは思わない。確かにニューヨークは金さえ出せばなんでもできる、というところではあったが、やはり殺伐とした雰囲気があったのもまた事実である。決してアウトドア派ではないが、こちらに来てからは週末ごとに郊外に行って広大な自然の中でぼんやりする楽しみを知った。はやりの表現を使えば「癒される」週末を過ごしている。

だが、それはあくまでも暖かい時期だけの話。今年の冬はそうでもないが、前の冬はさすがに閉口した。ニューヨークとはまったくレベルの違う冷え込み方であった。そんな中でも酔狂にも昨年1月にヒューロン湖畔へ行ってみたことがある。南極観測隊が眺めている光景とはこんなものではないかと思わせるような一面の氷の世界が広がっていた。見渡す限りの氷の世界。途中何度かスタックしながら這這の体でミシサガへ戻ってきたものだ。

2度目の冬をどう過ごすか、それは我が家にとって家庭円満のためには非常に重要な問題であった。かといってさしたるアイデアもないまま徐々に寒くなっていったある日、妻が突然に「アンティークショップに行きたい」と言い出した。日本にいる頃はそんな趣味はまったくなかったのだが、どこかで情報を仕入れてきたらしい。これと言った代案のない私は妻に引かれてアンティークショップ巡りということになったのである。

アンティーク=骨董品という先入観を持っていた私は店を訪れて少々驚いた。そこに並べられている品々のほとんどは骨董品ではなく、古道具だったのである。考えてみれば建国後まだ200年あまりしか経っていない国である。建国当時のものであってもせいぜいが江戸末期のものということになる。アンティークショップという言葉の前にやや萎縮気味であったが、肩の力が抜けた。

妻の興味はもっぱらガラス食器に向いていた。聞けば日本でも愛好者は多いとのことだったが、そんなものにはまったく興味はもてず、もっぱら店の中では別のコーナーを物色することとなった。私が眺めて楽しむのは玩具・民具の類と古雑誌である。

子供の頃にもっていた"Matchbox"という英国製のミニカーが驚くような値段で売られていることに驚き、どう考えてもゴミにしか見えないようなものが売られていることに新鮮さを覚えた。自分が生まれた頃のLIFEや新聞の縮刷版を眺めるのも楽しい。特に広告は時代を映しており、非常に面白いものだと思う。ガラクタも30〜40年きちんと残しておけば価値が出てくるものなのだ。ウサギ小屋と揶揄される日本の家では到底無理だが、こちらの家ならばどこかにおいておけるのかもしれない、などとふと考える。

北米は消費文化の発祥の地だと思っていたが、必ずしも決してそうではないのかもしれない。販売する側は「消費こそ美徳」と宣伝をしたのかもしれないが、日本のようにそれが隅々まで行き渡らなかったのかもしれない。日本の古民家などに展示されているような民具がごく普通に店に並んでいる。しかも別にプレミアがついているわけでもなく、見た目にふさわしい値段で売られている。

どういう人がこういうものを買っていくのだろうかといつも考える。過ぎし日を懐かしむ人が多いのだろうが、中には実際に使用する人もいるのではないか、そんな気がしてならない。無骨だが頑強そうなものが多く、使い方を承知してさえいればいまでも十分に使用できそうである。清教徒の精神がいまも息づいていると思うのはさすがに考えすぎであろうか。

東洋風のものがあるとどうしてもしげしげと眺めてしまうが、私が訪れるようなクラスの店ではいわゆる骨董的価値のあるものにめぐり合うことはまずない。仏頭はよくみかけるが、あきらかに土産用として作られたちゃちなものが多いし、浅草の外国人相手の土産物屋で売っているような(決して日本で着ている人を探すことはできないであろう)着物を大量に置いていた店もある。日本風であればなんでもよいだろうということなのかもしれないが、単なるお菓子の缶を売っていた店もあった。しかし、裏返してみれば日本で我々がペルシャ風だとか、アフリカの民具だとか言って売買している商品も似たようなものなのだろう。こういう店を訪れる人々は学者ではないのだから、本人が納得していればそれでよいのだろう。

日本で骨董品を買おうとすると法外な値段がついているのではないかと戦々恐々としなければならないが、おちらの店に並んでいる商品はどれもたいした値段ではない。店に並んでいるガラクタのようなものの歴史に思いを馳せ、それをリスペクトすることができればそれでよいのだろう。

購入点数は妻の方が圧倒的に多いのだが、どうしてもほしくなると高いものに手を出してしまうのは私のほうである。せいぜい15ドルくらいまでのものしか買わないのだが、1つだけ日本円にすると"福澤先生"が消えてしまうようなものを購入したことがある。エールフランスがおそらく景品として製作したロッキード・コンステレーションである。この機材は1947年から民用機として製造され、1959年にはもう製造中止になっているので、1950年代のものでだろうと推測している。あるいは後年何かの記念に製作されたものかもしれない。因みにエールフランスが初めて日本に乗り入れた時に使用していた機材でもある。

これを購入した店は多くの店にスペースを貸して販売を代行しているWarehouse形式の店だったので、レジの女性にはなぜこんなものにこんなに高い対価を払うのか理解してもらえなかった。何度も値段も見間違えているのではないかと聞かれたが、それでも買うというと後ろにいる妻に向かって「男の人はいつまで経っても子供なのよね。」と呆れ顔で話しかけられた。妻が強く同意したのは言うまでもない。

周囲の目を無視して買ったものだが、この模型を眺めながら、これを手にした人はどういう人だったのだろうとか、この頃この機種に乗って世界を旅した人は何を考えていたのだろうとか、愚にも付かぬことを考えていると冬の日でも結構楽しめるものである。

妻の理解の域はすでに超えているようではあるが…。

 


次回の随筆はTsubaki of Canada Ltd.の大墨佳司様にお願いいたしました。よろしくお願いいたします。



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