リレー随筆

うちのご主人様 

うちのご主人様

デイビス&カンパニー法律事務所
弁護士 原道子



ある晴れた日曜日、国境を越えてアメリカの田舎町を散歩・・・

「まあ、こんな所で。本当にお久し振りです。あっ、ところで、こちら主人です。」

「えっ? ご主人って、本当にいらしたんですか。架空の人かと思っていました。」

さて、皆様、ここで「架空ではなかった主人」を紹介しているのは、何を隠そう、私です。若干光景は違っても、雨が降っていても、吹雪の中でも、このような会話は実は過去に何度も交わされています。

聞くところによると、当方のスタッフにも、「原さんって、本当に結婚しているんですか?」という質問がよくあるということです。このような質問をされる理由は色々あると思いますが、主人は仕事の関係で週日はオタワに住んでおり、一方、普段モントリオールに住んで、東京−トロント−モントリオールの間を通勤している私とは週末しか一緒にいないという物理的条件と、仕事と私生活は出来る限り切り離したいという私の方針というか心情的要因に由るところが大きいと思います。上記のような対応の後、「今まで、一度もお会いしたことがありませんでしたね」と続き、これに対しては「ええ、大切な人なので、いつも絹に包んで仕舞い込み、皆様にはお見せしないようにしています」などと言って、たいていは茶化してしまいます。

そこで、今回バトンを頂戴したのを機会に、皆様に彼を紹介させて頂くことに致しました。たった一度の機会ですので、どうぞ、お付き合い下さい。

彼の名前はスティーブと言います。但し、これは本名ではありません。大分前に車を定期点検に出した時に、点検が終わりましたという電話が私のオフィスに入ったのですが、その時に電話を取り次いだ者が、相手の名前と主人の名前を取り違えて、スティーブさんに電話がありましたという話になりました。そこでスティーブとは誰であろうかという争議が醸し出され、それがうちの主人のことであったと解明して以来、うちの法律事務所の者たちはみんな彼のことをスティーブと呼ぶようになりました。

彼は家でも自分の本名を耳にすることは先ずありません。というのは、彼はニックネーム、というよりは愛称と言った方が情緒があるかもしれませんが、が沢山あります。恐らく百は下らないでしょう。もっと正確に表現するなら、私の想像の及ぶ限りの呼称があるということになります。びび君とか、ピー太とか、ブジブジくんとか、プルちゃんとか、私の口から無意味な音が発声されたら、それは自分のことを呼ばれているのであることを彼は即座に理解してくれます。家の中だけではなく、例えば空港で彼が間違った方向に進んだとしても、私は大声で「むーちゃん」と呼び戻したりします。周りに日本人がいるような場合には、誤魔化すために「むー」で済ましてしまいます。ほとんど誰にも通じない言葉、というよりは通信方法なので、あまり周囲に気を遣う必要もなく、なかなか便利です。

ところで、プッチーニの「ラ ボエーム」というオペラをご存知ですか。この中で主人公の女性が、

   みんな、私のことはミミって呼ぶの。

   でもどうしてだか分からない。私の本当の名前はルチア...

と歌う場面があります。彼の本当の名前は勿論ルチアではありませんが、実は彼もミミと呼ばれることが一番多いです。どうしてだかは、彼にも、私にも、誰にも分かりません。

このように無限の呼称を持つことをとても豊かに感じるといって、本人は喜んでいます。この辺が、私の母が生前、彼のことを極楽トンボとか、聖人とか、時と場合により上げたり下げたりしていた所以かも知れません。私のモントリオールの秘書は、彼のことを「素直な人」と表現したことがあったように思います。大の男に対して、褒め言葉かどうかは若干の疑いがありますが。

尾篭な話で恐縮ですが、先日、休暇でパリに行きました。滞在中、知り合いのアパートを借りたのですが、着いた時にトイレットペーパーの予備が一つしかありませんでした。ところが補充を怠っている内に、ある日トイレに入ると、無残にも裸にされたロールしか残っていません。なんで直ぐに言ってくれないの、という思いを爆発させて、「ムッシュー デランカン!!!」と叫ぶと、何と元気良く「ウィ!」という返事が返って来ました。こんなに小学校の優等生のような返事をされると文句も言えなくなってしまいます。それにしても、皆様、ご存知でしょうか。「デランカン」というのはフランス語で、軽犯罪者という意味です。この時ばかりは、うちのご主人様はやっぱり本当に極楽トンボであったかと暫し頭を抱え込んでしまいました。兎に角、名前の数ではギネスブックに載れると、自分で言っているような人なのです。

こんな感じですので、喧嘩をするということはまずありません。数年に一度位は言い争うこともなくはありませんが、2〜3分ともちません。可笑しくなってどちらかが吹き出してしまうのです。一緒にいる時間がほとんどないので、喧嘩をするほど密度が濃くないということも出来るかもしれません。夫婦喧嘩をしょっちゅうしているご夫婦が羨ましいという気持ちが心の隅にないわけでもありません。

ところで彼は極楽トンボには似つかわしくない面もあります。なかなかの策士であるというのも、彼の一面です。良く亭主関白に見えるけど、本当は奥さんのお尻に敷かれているなどというご夫婦の話を耳にします。うちの場合は、全くこの逆です。私自身の自己評価は、「機関車」の一言に尽きます。即ち、馬力はあっても、機関士が石炭をくべてくれて、操縦士が運転してくれないと進みません。オフィスでも、何故か皆に恐れられている存在のようではありますが、パートナーのデイビッド(これは本名です)という腕の良いパイロットがいなければ、これまで順調に飛び続けることは出来なかったと思っています。そもそも主人がいなければ、今日、原道子という弁護士は存在しません。私が弁護士になったのは、彼に上手く乗せられた結果です。

本日の主役から話が少し逸れますが、私がカナダに来たのは今からおよそ30年前、弁護士になったのは22年ほど前のことです。よくカナダに来たきっかけを聞かれますが、実はこれというほどの理由はありません。日本で大学を卒業した後、ひょんなことからパリに住むことになりました。1970年代の初めのことです。当時は日本人の海外旅行も今ほど盛んでなく、東京とパリの距離は今の何倍もあったと思います。それ以前は旅行嫌いでしたが、日本に帰ったら次はカナダに行こう、と思うに至ったのもその頃です。なぜカナダかというと、それは私が日本で行った学校が100年ほど前にカナダの宣教師によって設立されたため、以前から若干カナダには興味があったということに過ぎません。こうして1975年2月に初めてカナダに到着しました。最初の一年は、モントリオールよりももっと寒いケベック市に住みました。

どうしてケベック市に住んだのですか、どうしてケベック州を選んだのですかという質問もよくされますが、それは主人が当時そこに住んでいたからです。ここまで説明すると、それではカナダに来た理由は、ご主人がいたからではないですか、さっきの理由はでっち上げではないですか、と言われてしまうのですが、これは聞き手の早とちりです。私がカナダに来ることを決めた段階では、私はまだ主人とは巡り合っていませんでした。それでは、彼とはどこで巡り合ったのですか、と言う質問には答えが二つあります。短い答えは、パリです。然し主人がいたから私がカナダに来たというのが事実ではないのと同じように、これも正確な答えではありません。本当は、イタリアでした。二人がそれぞれパリで学生だった時に、旅行先のイタリアで会ったというのが正確な答えです。

余り本題から離れすぎてはいけないので、先に進みましょう。その後、オタワに引っ越して結婚し、私は暫くの間、上手く「家庭の主婦」役を演じていました。というのは本人の思い違いだったかも知れません。家庭の主婦とはいうものの、実は本や記事を書いたりしていました。そして余った時間は、子供がいないこともあり、思う存分読書をして過ごすという優雅な生活を送っていました。つい最近彼に言われるまで忘れていたのですが、その頃、キルティングにも凝り、結構大作などにも挑戦していました。またフルートのレッスンもしていました。私にとっては、最も理想的な生活ということが出来ます。これを見兼ねた(のだと思うのですが)主人が、ある日言いました。「君の頭脳を無駄にするのは勿体無い。また大学に戻って勉強するべきだと思う」本当のメッセージは、「家にいてもまったく役に立たないから、何かしたら?」ということであったと思うのですが、私はまんまと彼の手に乗せられてしまいました。

「学校に行くっていったって、今さら勉強する限りは、何か仕事に結び付くことをしたいわ。でも、何をすれば良いのかしら?」私としては、ちょっと格好を付けて、かなり殊勝な発言をしたつもりでした。

「そんなに深く考えることはないよ」

「でも、やっぱり・・・そうだ、会計士なんてどうかしら・・・駄目、やっぱり駄目だ。だって、私のように飽きっぽいのが、毎日数字と睨めっこして、何年も続くわけがないもの」

「それだったら、弁護士はどう?タックスロイヤーだったら、数字だけじゃないよ」

「それは無理。だって、法律の勉強は母国語だって難しいもの。言葉のハンディのない分野じゃないと」

「やってみて、駄目で元々、兎に角一年だけやってみればいいよ」

何と、この言葉に釣られて、そうかこれで一年間は優雅な学生生活が保証されるかと心の底でほくそ笑みながら、絶対に無理と分かっているロースクール生活に突入しました。彼よりも、私の方が極楽トンボだったかも知れません。

そして開けてびっくり、外国語でのロースクールは、思ったよりも何倍も大変でした。特に一年目の終わりには、三分の一が落第、そして留年は認められないのです。ところがなんとか一年目を無事終了してしまいました。彼が「兎に角一年だけ」と言ったのには、裏があったのです。即ち優雅どころか地獄のような一年をなんとか通過してしまうと、面白くて辞められなくなってしまうのです。自分もパリに留学する前にロースクールを出ているため、そのことは良く知っていたのでした。私はしてやられたと思いましたが、後の祭りでした。

上記の遣り取りに加え、私は入学前にこんなことも言っていました。

「でも、万が一、弁護士になったら、私は仕事の鬼になってしまうからね。家庭なんか顧みなくてもいいのね」

「勿論、仕事を優先してくれて良いよ」

私は弁護士になれるとは思っていませんでしたし、彼も恐らく同じ思いだったと思います。それでもここで交わされた契約は今でも尊重されています。彼はこの20数年間、一度も文句や愚痴を言ったことがありません。脱帽です。実際には、在学中に日加間のビジネスロイヤーが不足していることに気が付き、そちらに方向転換したためタックスロイヤーにはなりませんでしたが、並行して受講した商学部の会計学や税務の授業は今でも大変役に立っています。これも彼のアドバイスのお陰です。

さて、本日の主人公に話を戻しましょう。彼はカナダ国会の書記官をしています。書記官というと、国会の討議を記録する役目と思われる方がいるようですが、それは速記者の仕事です。書記官というのは、国会の審議会のお膳立てをしたり、法案に関する公聴会を召集したり、視察旅行に同行したりします。忙しい時はとても忙しいですが、その代わり、夏休みはXヶ月も取れるという羨ましい仕事でもあります(Xの部分は皆様のご想像にお任せします)。

前述の通り、仕事と私生活は切り離すという方針に加え、弁護士には守秘義務というものがありますので、私は彼には仕事の話は一切しません。彼も私には自分の仕事の話はあまりしません。先日、日系人としてカナダで初めてオダ議員が大臣に就任されました。彼はオダ大臣のことを仕事の関係で良く存じ上げているそうですが、実はその話も先回の総選挙の後、初めて知りました。彼が、オダ議員は今回必ず大臣になる、とても優秀な方であると話したためです。「そう言えば、僕の奥さんが日本人であるという話はしたことがなかったなあ。」とも言っていました。仕事の話をするのは、それぞれ週末に掛かる出張のスケジュール位です。週日は私がバンクーバーにいても、国境を越えていても、彼はそれと知らずに電話やメールで私と話をしていることがあります。時々週末に「水曜日に電話で話をした時、私、どこにいたか知ってた?」という会話になることもあります。ちょっと変なカップルでしょうか。

数年前に母が亡くなり、法事を済ませてからカナダに戻った時に、前述の秘書からこんな話を聞きました。生前、母からは頻繁に電話がありましたが、話し好きの母は、私の手が空いていないと秘書を?まえて、これ幸いとばかり長話をしていました。これは私も知っていましたが、彼女は余程母に口止めされていたのか、会話の内容は一度も聞いたことはありませんでした。最後まで東京で一人暮らしだった母の夜半(宵っ張りの母からの電話は大抵日本時間の夜遅くでした)の話相手になってくれている彼女には感謝していました。その彼女が、初めて話してくれたことです。

ある時、母はこう言ったそうです。「毎年のようにカナダに来るけれど、特別何もしなくても、二人が仲の良いのを見るだけでもその価値がある」と。この一言には泣かされました。もう、主人には完全に頭が上がりません。

皆様、ご清聴を有難う御座いました。私からのバトンは、ノリタケ カナダの藤井社長に受け取って頂くことになっております。ご期待下さい。

戻る