リレー随筆

 

2冊の本との再会



金 ダグラス (PricewaterhouseCoopers LLP)



アイケア(日本ではイケア)の宣伝ではありませんが、皐月晴れの陽気からすると既にトロントは日本の暦と同じく、初夏に入ったようであります。季節の変わり目には、何かと体調を崩しがちですので、皆様におかれましてはお体にご自愛ください。

さて、誰にでも一日は24時間平等に与えられており、時間は等しいスピードでメトロノームよろしく流れているはずですが、実感とは大分違う感じもいたします。砂時計の砂を引っ張る地球の重力は、いつでも均等に働いているのでしょうか。

時間という仮想敵との日々の戦いで、押され気味に思われるときには、ベンジャミン・フランクリンの「汝の仕事に追われるな、汝の仕事を追え」という逆転の発想で対処することが必要でしょう。また、時間の流れを止めたり調節したりすることはできませんが、逆に自分の視点を一点に定めて、まわりを定点観察してみることにより、何か見えてくるものがあるかも知れません。あるいは、以前に読んだことのある本を、今一度紐解いてみることも一策でしょう。

どんよりとした空模様が続くまだ肌寒い3月のある日、地下鉄ノースヨークセンター駅にある図書館にて、韓国語の本の棚を何気なく見ていました。すると、日本文学全集の翻訳本のコーナーがあり、偶然にも石坂洋次郎氏の『陽のあたる坂道』、『青い山脈』が収録されている一巻を発見いたしました。この本を手に取った瞬間に私の心象風景は高校時代の遥か彼方へと舞い戻り、時間の流れが急速に減速してゆくように感じられました。

氏の本は、処女作『麦死なず』から、津軽の人情を情感、ユーモアたっぷりに描いた『石中先生行状記』、晩年の軽井沢での実生活に基づくと思われる『老いらくの記』まで殆ど全て読みましたが、そのたびにどれだけ私の心が癒されたか知れません。日本に蔓延っていた男性中心の社会故の歪んだ性道徳への断罪と、これに対峙させた健康なエロテイシズム、これは時には作者を通俗作家と誤解させる要因でもあったようですが、タブーに触れる事を厭わない作者のヒューマニズムは、私の高校時代の迷える心に染み渡りました。

韓国語の翻訳版で読み直して見ますと、地名が若干間違って翻訳されている等はご愛嬌として、様々な人間模様のそれぞれの登場人物に対する作者の暖かい眼差しを改めて感じました。20世紀最後の十年間に日本が失ったものの中に、このような暖かさが含まれていなければよいのですが。

ほぼ同じ時期にもう一冊、なつかしい本に再会しました。森本哲郎氏の『生きがいへの旅』です。管理社会、情報化社会が台頭し始めた時期に、真の豊かさとは何なのかを、当時(1960年代)最も物質的に豊かであるとされた国の一つであるスウェーデンのストックホルムと、戦争の真っ最中であったベトナムのハノイを足がかりに考察することから始まっています。

氏の強みである、実際の自身の取材に裏打ちされた一行一行の文章は、説得力がありました。ジョージ?オーウェルの<1984>年は未だ来たらず、東西冷戦終了など想像もできなかった時代に、ともすると自身の立場からの合目的な議論に偏りがちだった知識人に対する警鐘を鳴らし続けていた氏の慧眼には、改めて敬服させられました。

余談ですが、昭和53年の文庫初版本のせいか、活字は現在の活字サイズと比べて相当小さくなっており、時代の移り変わりを感じた次第です。

旧秩序を破壊して新しい秩序を形作るという創造的破壊の過程は、今や激烈な市場競争下で市場参加者が生き残るための戦略論、日々の戦術論という実践的なものと思われます。ところが当時は、抑圧からの開放としての自由の獲得という哲学的、政治的な課題であり、新しい秩序は常に新たな抑圧を生むという、無限の不条理のサイクルとして、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を例に氏はよく説明されております。

森本氏のどの本であったか失念いたしましたが、「豊かさへの旅路は日曜の午後3時に始まる」という一節は、問題解決への氏の一つの実践的な方策と思われ、週休二日制が常識の今でも言い得て妙な一節です。

激動の先の大戦の前後を通して、人間愛に裏打ちされた作品を一貫して世に問うてきた石坂氏の本はもっと広く読まれてよいと思っております。また、世界がどういう方向に進んでゆくのか、或いは進んでゆくべきなのかについて、真剣に考え続けた森本氏の論考も同様です。

以上は私の限られた読書遍歴からする拙文でございました。暑さを凌ぐ為の一服の清涼剤の水準には到底至らないですが、暑さを増す要因にならなければ幸いです。

 

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次の原稿は、カナダ日本通運株式会社/Nippon Express Canada Ltd.の大森義友(Yoshitomo OMORI)さんにお願いいたしました。


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