
50周年記念特別寄稿
―かつては自分が、そして今は子どもたちが通う―
補習授業校
“土曜日だけに現出する 砂漠のオアシスのような存在”だった

柳川 智樹 (カナダ三菱自動車)
補習校をテーマに何か書いて頂けませんかという丁寧なご依頼を、商工会の事務局より頂戴した。
私事で恐縮だが、26年前にバンクーバー補習校の小学部を卒業した。そのことをご存知の方が事務局におられ、昔と今を比較してという趣旨であったが、はたと困った。もう四半世紀以上前のことで、記憶の地層をいくら掘り返しても、断片的な思い出しか出てこない。そういうワケで、事実と異なる点が多少あるかもしれないが、そこは大目に見て頂ければと思う。
かつては正式にはヴァンクーバー日本語補習学校という名称であった補習校に、小学校3年だった77年から、81年まで在籍した。当時を良く知る人によると、授業は現地校を借りて行っていたが、賃料の支払いが負担となり、財政難に陥っていたそうだ。やがて現地の学区統廃合から廃校となった校舎を無料で借り受けることができ、日系企業からの寄付もあって運営は軌道にのった。それまでは一切の備品を置くことができず、教材はもちろんのこと図書室の本まで毎回先生方が持ち帰っていたそうだが、自前の校舎を確保できたことで、ようやく常設の図書室を開くことができたという。
校舎は廃校になっただけあって確かにボロく、壁を蹴るといとも簡単に穴が開いた。小学部は1学年1クラスずつで、各クラス15−20名ほどだったかと思う。人数は少なく、それだけに皆仲が良かった。皆が陰でクソヤナギと呼んでいた草柳先生は、全然クソではなく、とてもまじめで熱心な先生だった。天気のいい日には、芝生の上に車座になって授業をしたり、時折自腹で近所のアイスクリームをクラス全員に振舞ってくれたりした。なぜそんなヒドイあだ名を付けたのかは分からない。とにかく先生の言うことを聞かず、授業中も悪ふざけばかりしていた。そんな時も先生はめったに怒るようなことはなく、少し困ったような苦笑いを浮かべて僕らをやさしく諭されていた記憶だけが残っている。いつかお会いする機会があれば、お詫びしたいと思っているが、今では消息も知れない。
そもそも親の都合でカナダに連れてこられ、他に日本人が一人もいない現地校に放り込まれた。そこに週日は現地校、土曜は補習校という二重生活が始まり、2つの学校の宿題と通信教育に埋もれた。今にして思うと、平日溜めたストレスを、ここぞとばかりに土曜日に発散させていたのだと思う。土曜が来るのが楽しみで、いつも次の土曜を指折り数えて待った。やがて生活にも慣れ、カナダでの生活も徐々に充実したものとなっていったが、中1の夏に帰国が決まった時は、飛び上がって喜んだ。刑期を終えた囚人の気持ちとはこんな感じだろうか、と思った記憶が鮮明にある。子供心に「将来自分の子にこんな思いは、決してさせまい」と固く誓った。
思いがけない転勤が決まったのは、一昨年の夏だった。突然上司に「カナダに行ってくれ」と言われ、最初は意味が分からず「出張ですか?」と聞き返した。駐在だという。かくして子供の頃に立てた誓いは、あっさりと破られ、不安げな当時7才と5才の娘を連れてトロントにやってきたのは、去年の4月のことだった。
トロント補習授業校は1974年に創設され、今年で創立33年となる。200名弱の生徒数でスタートし、現在の校舎に移ったのは82年。ピーク時に750名を超えた在校生の数は、日本のバブル崩壊と軌を一にして89年から減少に転じ、現在は430名弱だそうだ。とはいえ教職員の数、設備といずれも充実し、自分の通った補習校とは隔世の感がある。特に2万冊を蔵す図書室の充実振りには、目を見張るばかりだ。娘たちも嬉々として、毎週入り浸っている。
1年前にトロントに来た娘たちは、やはり最初の何ヶ月かを泣きながら過ごした。初めはハラハラしたが、子供の成長は、庭先に植えた朝顔のつるが伸びるより速かった。カナダの短い夏が終わる頃には、言葉は不自由ながら仲の良い現地校の友人が何人かでき、今ではすっかり元気そうに学校に通っている。ただ、まだつらいか?と聞くと、つらいと言う。そうかそうか、分かる分かる。だがお前たちの父もそうだったからガマンしろと、2校分の宿題の山の間から、うらめしそうな目を向ける娘たちに言い聞かせている。まだ「なぜ自分たちだけ、2つの学校に行かなくてはいけないの?」と聞かれたことはなく、今のところはおとなしく通っている。
自身は現地校と補習校を行き来したことで、日本人であることを強烈に意識させられた。自分は何者なのか?日本人であるということは、どういうことなのか?小学生の頃、気持ちの底の方に沈殿したこの根源的な問いは、当時もちろん明確な輪郭を持たなかったが、大学に進み、社会に出て行くにつれ、徐々に意識の表層部にまで浮上してきたように思う。カッコつけて言わせて頂ければ、その問いと常に向かい合ってきたことで、自分の価値観や姿勢は形成されてきたし、未だにそれは続いている。現地校と補習校、どちらが欠けても今の自分は存在しなかった。何のために補習校に行くのか(あるいは行かせるのか)と問われれば、それは自分と向かい合い、自己のアイデンティティについて考え続けるためにではないかと思う。
子供の頃は、補習校に通えることが当然のこととして、ありがたくも何ともなかった。だがそれが多くの方々の並々ならぬ努力の積み重ねがあって、土曜日だけに現出する砂漠のオアシスのような存在であることを、今は良く知っている。長い時を経て、この幸せな空間を支える側にまわったことは、やはり奇縁としか言い様がないが、その偶然に感謝したい。ただ感謝するだけでなく、自分が受けた恩恵をほんの微量でもお返しできれば、と思ってみたりもするが、あんまり表立って言うと何だか難しい仕事が回ってきそうなので、今はひっそりと思うだけにとどめている。
それでいいですよね、草柳先生?
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