リレー随筆

 

悟りを開いた
Now in my forties, I am enlightened, but not any lighter.





   山本晴美 (CIBC)

父親は40歳代の時は日本人にしては結構たっぷりとした体型でした。1970年代にはうんと体に悪い物を食べて50歳代でついに成人型糖尿病になってしまった。これは若年型糖尿病よりも遺伝するので、私も昔から意識していた。しかし、母にある日「あなたも中年になったんだから成人病に気を付けなさい」と言われてグサッと来ました。

中学校時代の「保健」の時間だったと思うが、「中年」とは 40〜65歳までの人を指すと習った記憶がある。自分もその範囲内に確かに入っている。

こちらで最近良く聞くのは、 “40 is the new 30.”とか、”50 is the new 40.”とか。つまり人間も全般に寿命が延び、最近の40歳の人は肉体的にも精神的にも昔の30歳の人の様だと。

それなら「中年」も50歳〜75歳まで延ばせば良いのにと思うが、この提案をどこに届け出せば良いのか。ちなみに、65歳から高齢者と一応は呼ばれるが、ピンピンしている65歳とかなりくたびれている95歳を一緒にしては不都合であるため、福祉の世界ではさらに細かく分けている。前期高齢者(young old)と、後期高齢者(old old)と、超高齢者(“super old”ではなく、 oldest old)と区分されるそうである。

さて自分に戻るが、私は肉体的な変化よりも精神的な変化を感じる。とにかく「中年」になってからは毎日が妙に平和になった感じ。

もともと落ち着いている性格だったが、最近さらに構えがどすんとしたような気がする。怖いものナシ、とは言い過ぎかも知れないが、余り細かい事には気を回さないようになった。

その昔、「オバタリアン」という漫画があった。(ご存知かと思うが「バタリアン」という恐怖映画があったが、それと「おばさん」をかけた)。出た頃は私も多分10代後半か20代でその「オバタリアン」の図々しさに驚いて笑っていた。

実際にオバタリアン的行動を目撃した事もある。温泉地から東京に向かう電車のホーム。駅に入って来る電車の開いている窓から自分のかばんを空いている席のところにおいて、電車を乗る前から自分達の席を確保している中年おばさんの団体の姿を確かに見た。「これがオバタリアンだ」と少なからず興奮をした覚えもある。

その漫画、最近古本市にあったので懐かしくて買ってみたが、今読むと「これなら出来るな」と思う事が多くてびっくりした。

何よりもいわゆる「他人の目」が気にならなくなった(これは中年になったこと以上にカナダに住んでいる事も大きく影響した事でしょう。概して言うとカナダ人は日本人ほど他人の目を気にしない部類ではないか)。

自分の場合は20年前には考えられなかったが、今はハンドバックと靴の色が揃っていなくても平気な顔をして出掛けられる。なんとも思わない。また人様にご迷惑かも知れないが、スッピンの顔を他人に見せる事も出来る(日本でも)。 バブル時代、東京の銀行で働いていた頃は、とってもとっても考えられない事であった。

それに加えて、以前と比較すると自分の意思をしっかり通そうとすることも多くなった。カナダのコール・センターに電話をした事のある方なら分かると思うが、よほど騒がないとなかなか拉致が明かない事も少なくない。昔の様に遠慮していたら何も解決されず泣き寝入りすることが多いでしょう。現在は二言めには「マネージャーを出せ」と。最近は自分が悪い時でも自分のわがままが通るかを試してみたりもする。言ってみて損はないと思うところが実にオバタリアン。

なぜこうなったかを考えたことがあるが、一つは確かにカナダという環境にいるとオバタリアンに成りやすいということは否定できない。だが、もう一つ訳がある。それは自分が何かある種の「悟り」を開いたのである。人生経験を積んで行くうちに、本当に自分が幸せになるためには何が大切なのかが分かったのだと思う。長い目で見て、本当に大切な事だけをしっかりと対処して、そうでないことを気にしないようになったのである。

実際に読んだ訳ではないが、こんな本の題名を聞いたことがある “Don’t Sweat the Small Stuff ? and it’s all small stuff. ” 本の内容はともかく(何しろ読んでいないので)、つまり「ほとんどの悩み事は実は些細な事なので、悩むな」とのことだと思う。題名だけだが、これが最近の自分の基本的なフィロソフィになった。

考えてみると納得出来る。世の中には戦争が起きている所もあり、天災で家のなくなっている人、家族を失っている人等、本当の意味で不幸な人が数えきれないほどいる。それと比較すると私達の毎日のいら立ちの原因はあまりにも些細ではずかしい。

この若さで悟りを開いた事には幼い息子が喘息だったことも影響しているように思う。それほど重い喘息ではなかったが、何度か夜中に病院に運んだ事があるし、入院も二回ほどした。幸いここ2年以上発作も起こさず、健康に過ごし走り回っているが、私は一度911で救急車を呼んだ経験もある。

その9・1・1を震えている手で押した時の気持ちを思い出すと、例え会社がサブプライムでやられようが(!)、上司、義理の親に嫌みを言われたり、夫に結婚記念日を忘れられ、自分がオバタリアンになろうが、いずれも本当に些細な事だと実感出来る。

それよりも夫と子供は健康で幸せ、両親はまだ元気で生きていてくれていることを喜び、自分のエネルギーをそちらに注いで、後ろの車がうるさくクラクションを鳴らし、通りごしに中指を立てられても「なんだ、あいつ」と軽く流し、2秒後には忘れるようにしょう。

 

戻る