Who's Who Canada−著名カナダ人を知ろう



トロントで暗く生涯を終えた『赤毛のアン』の作者


L.M. モンゴメリ (Lucy Maud Montgomery)
1874〜1942


Lucy Maud Montgomery


フリーランスライター 三藤あゆみ


「カナダから来たんですか?『赤毛のアン』100周年なんでしょ?」
「カナダ?このあいだテレビでモンゴメリの話やってましたよ」
この夏日本に帰省した際に、そんな話題がでること数回。

『赤毛のアン』出版100周年記念は、トロントよりも日本のほうがずいぶん盛上っているようでした。というわけで今月は、アンを生み出した、カナダを代表する女性作家、ルーシー・モード・モンゴメリについて。

ところで皆さん、モンゴメリが住んでいた家が、トロントにあるのをご存知でしたか?

トロント市内のハンバー川に面した丘の上にある家で(地下鉄ジェーン駅の南の方、210 Riverside Drive)、赤毛のアンが大人になってからの続編ストーリーや、映画化された『丘の家のジェーン』など後期代表作品が生まれたのです。

モードは、その家を「Journey's End(旅路の果て荘)」と呼んでいました。そして文字通り、彼女はその家で晩年を過ごし、生涯を終えました。しかし、個性豊かで元気な少女たちが登場するハッピーエンドの多い彼女の作品とは裏腹に、トロントにやってきてから亡くなるまでの約7年間は、悩み多く暗い毎日を過ごしていたそうです。

モードの先代は、スコットランドからカナダへの初期の移民で、1770年代にプリンス・エドワード島にやってきました。モードは、モンゴメリ家の一人娘として1874年にPEIで誕生。不幸にも2歳にもならないうちに母親を結核で失ってしまいました。そのため、キャベンディッシュに住んでいた母方の祖父母、マクニール家にひきとられます。祖父母は敬虔なプレズビタリアン教徒(長老派教会)で、しつけや教育にもきびしい人たちでした。モードの父親のほうは西部のサスカチュワン州へ移り、再婚しました。モードは6歳のときに、一時、父のほうにひきとられますが、わずか1年でPEIに戻っています。

モードは、幼少期に両親との別離があったせいか、仲間はずれや一人ぼっちになることを極端に恐れる子どもだったそうです。しかし、『赤毛のアン』に出てくるような島の自然やマクニール農場を愛し、親戚やいとことたちとも仲良く過ごしながら育ちました。小説の中で、アンが、「お化けの森」や「きらめきの湖」など 島の自然にイマジネーションたっぷりの名前をつけるシーンがありますが、それはモードが子どもの頃から実際にしていたことでした。

小さい頃から本を読んだり文章を書くのが大好きだったモードは、繊細で想像力豊かなティーンエージャーに成長します。PEIでカレッジを卒業し教員の資格を取得した後、ハリファックスのダルハウジー大学で文学を専攻。卒業後は、PEI各地の学校で教員を務めるかたわら、コツコツと短編の児童文学や詩などを書き続けました。親代わりになって育ててくれた祖父が亡くなると、残された祖母の世話をするためにキャベンディッシュに戻ります。モードは、家事をしたり祖母のめんどうをみながら子供向けの作品を書きため、出版社に送りますが、その9割はボツにされていたとか。それでも作家として食べていくことへの夢は捨てなかったそうです。

その後、ハリファックスの新聞社で校正とライターの仕事につきます。勤務時間が長く、自分の好きな小説を書く時間もゆっくりとれない状態でしたが、朝早起きして出勤前の時間を創作活動に当てていました。

『赤毛のアン(Anne of Green Gables)』が誕生したのは、忙しすぎる出版業界の仕事に区切りをつけ、再びキャベンディッシュに戻ってからのことです。1902年、アンのアイディアが浮かぶと、夢中になっていっきに長編を書き上げました。しかし、いまやカナダや日本などに経済効果を与えるほどの作品も、すんなりと受け入れてくれる出版社は見つからず、初期に原稿を送った数社には、ことごとく断られてしまいます。モードは落胆して一度は原稿を箱にしまいこんでしまったそうですが、それでも、お金のためではなく好きで愛情を込め生命を吹き込んで書き上げた作品だから、かならずいつか日の目を見ると思ったそうです。

ついに『赤毛のアン』が出版されたのは、1908年のことでした。そしてベストセラーに。

アメリカの出版社と契約を成立させた次の年、祖母が亡くなると、長い間婚約状態になっていた長老派教会のユーアン・マクドナルド(Ewen Macdonald)牧師と結婚。英国へのハネムーンの後、ふたりはユーアンの仕事のためオンタリオ州へ引っ越すことになります。現在のUxbridge市のすぐ北側にあるLeaksdale村に15年間暮らし、モードはその間も創作活動を続けました。しかし、順調に売れていたアンシリーズも、第一次世界大戦の終戦の頃になると急速に落ち目に。戦争の話や、陰鬱な小説が売れ、モンゴメリの作風は支持されない時期がありました。

1935年、モンゴメリ夫婦はトロントに自分たちの家を購入します。ハンバー川に面した木々に囲まれた丘の上の家、「旅路の果て荘」と名づけた素敵な館に夫と暮らし、息子2人も成長して大学に入り、笑顔を絶やさない牧師婦人で小説家としても成功したモード・・・でもそれは、じつは見せかけだったのです。

小説のほうは、再び、アンシリーズや、新しいヒロインの『丘の家のジェーン』などが売れ始めました。トロントへ引っ越した1935年には、モードはフランス芸術員会員に選ばれ、また、ジョージ5世在位 25年記念の特別叙勲で大英帝国勲位を受けました。しかし、小説家としてのキャリアが成功したにもかかわらず、私生活のほうは暗く悩みの多い毎日が続いていました。モードは息子たちの学費捻出のために小説を書きながらも彼らの行動や人間関係に心を痛め、また、鬱病が悪化した夫ユーアンの看護に心身ともに疲れ果てていたのです。

学生時代からの持病だったユーアンの鬱病はかなりひどく、当時まだ開発されたばかりで危険をともなう電気ショック療法を受けなければならないほどだったそうです。

モードは、ついに神経衰弱に陥り、体調も悪化。1942年の春、冠状動脈血栓症で倒れ、トロントの旅路の果て荘で息をひきとります。モードが亡くなる前日に書いた日記には、"... since then, my life has been hell, hell, hell, my mind is gone?..."と記されていました。(モンゴメリの死は、トランキライザーを使った自殺だという説もあるようです)

モードの遺体は、彼女が愛した故郷PEIに戻され、グリーンゲーブルズと近くの教会で葬儀を行った後、キャベンディッシュに葬られました。翌年、夫のユーアンも後を追うように亡くなり、ふたりはいまキャベンディッシュの墓に一緒に眠っています。

モンゴメリに関する実話は、『旅路の果て、モンゴメリーの庭で』 というメアリー・フランシス・コーディの本の日本語訳が手にはいります。この本については、トロント在住のモンゴメリ研究家で、『赤毛のアンを書きたくなかったモンゴメリ 』著者である梶原由佳さんが、下記ページで紹介しています。 http://yukazine.com/lmm/j/articles/coadybook.html

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