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Who's
Who Canada−著名カナダ人を知ろう
今も幽霊となって出没!? 熱血政治改革者の初代トロント市長
ウィリアム・リヨン・マッケンジー
(William Lyon Mackenzie)
1775〜1861
フリーランスライター 三藤あゆみ
8月のある夜、夏休みでトロントに遊びに来ていた姪っ子と裏庭のデッキでおしゃべりをしていると、「トロントには心霊スポットってないの?夏はやっぱり怪談だよ」という。
それで思い出したのが、トロントで、いや、カナダで一番有名な幽霊屋敷マッケンジーハウスに出るといわれる幽霊のひとり(?)。生前はトロントの初代市長だったウィリアム・リヨン・マッケンジー。アッパーカナダ時代、トロント誕生の歴史に名を残した彼を、まだこのコーナーで取り上げていませんでした・・・。
トロントのイートンセンターから歩いてすぐのところ残される史跡、マッケンジーハウス(82 Bond Street, Toronto)は、同氏が晩年を過ごし生涯を終えた家で、今は小さな博物館となっています。1950年代から60年代にかけてがマッケンジーハウス幽霊騒動のピークでしたが、今でもポルターガイスト現象を体験したというスタッフや3階の寝室で幽霊を見たという観光客があとを絶ちません。トロント市がこの家を文化財として買い取ったときの不動産書類の家財目録にも、"One Ghost (exorcised)"(幽霊一体。悪魔祓い済み)と記録されているそうです。
「幽霊ひとり」といっても、マッケンジー初代市長の姿だけでなく、奥さんのイザベルさんの姿を見たという報告も多々あるとか。幽霊目撃の報告は、マッケンジー氏が息をひきとった寝室や台所のほかに、トイレと水道管の近くにいることが多いらしく、当時はなかった水洗トイレが珍しいのでは・・・などという噂まで。
さて、まだこの世に未練が残っているかもしれないトロント初代市長、ウィリアムL.マッケンジー氏は、どんな人物だったのでしょうか。
スコットランドのアバディーン生まれ、25歳の年にカナダに移住してきたウィリアムは、熱血ジャーナリストで政治改革に一生を捧げた民衆のヒーロー、そしてアッパーカナダの乱の主導者でもありました。
ウィリアムの両親は、当時のスコットランドでもエリートが多かった長老派教会の敬虔な信者でした。ウィリアムが小さい頃から、彼の教育や出世のために手をつくし、様々なチャンスを彼に与えてくれたのは母親でした。ウィリアムは子どもの頃から何にでも“熱く”、夢中になりやすい性質でした。読書家で、15歳ですでに地方新聞に記事を書き始め、サイエンス ソサエティに参加して探究心も旺盛でした。
ウィリアムの母は息子を学校に通わせるための奨学金を探してきたり、卒業後は商売を学ばせるために見習いのポジションを手配したりしました。ウィリアムは、ある程度働いてお金がたまると自分で雑貨店を開業し、巡回図書館をはじめました。その当時、ウィリアムはある女性と大恋愛をしていたそうです。まだ19歳、自分のキャリアで精一杯の彼は結婚までは考えていなかったようですが、彼女が妊娠。ここでまた、彼の出世のために一役・・・大役を買って出たのが母親で、赤ちゃんが生まれるとすぐにひきとって自分の養子として育てたそうです。その子どもの母親--ウィリアムの彼女については何も記録が残っていないということなので、何か出世の妨げになる事情があったのでしょうか。
翌年、ウィリアムの店は経営破たんしてしまいます。彼は職を求めて、英国各地、フランスなどを転々とすることになりますが、その間にロンドンの新聞社で働くチャンスを得て、少しずつジャーナリストとしてのキャリアが身についてゆきます。モントリオールへ移住してきてからも、フルタイムの仕事の傍ら『モントリオール・ヘラルド』などの新聞に記事を投稿していました。
ウィリアムは、ジョン・レスリーという友人と共にカナダに移住してきたのですが、レスリーのほうはさっさとヨーク(現在のトロント)に落ち着き、ビジネスを始め、家族も持っていたので、後にウィリアムも彼をつてにヨークへ移ります。やがてウィリアムは、レスリー家にお見合いを手配してもらい、イザベル・バクスターという女性と結婚します。
レスリー家とパートナーを組んでビジネスを始め、ダンダス・ストリートに開いた店のマネジャーを任されたウィリアムは、その傍ら再び巡回図書館をはじめます。
レスリー家にはいろいろと世話になったウィリアムでしたが、けっきょく彼らとうまくいかなくなり、共同ビジネスを止めてナイアガラ・オン・ザ・レイクのあたりに引っ越します。そこでの活動がウィリアムを政治の道に引き込んでいくことになり、また自ら出版業を始めることにもなります。ウィリアムは、自らが出版人の新聞紙上で保守派政権を辛らつに批判し、時には政治家の名を紙面に連ねて汚職や民主主義的でないやり方を糾弾しました。ジャーナリストとしてだけではなく、政治家としての道も歩き始めた彼の宿敵は、ファミリーコンパクトと呼ばれる、ハイソサエティの英国皇室よりグループでした。
そして1834年、トロント市の自治が認められると、投票によってウィリアムが初代市長に選出されました。しかし、改革派が勢力を得たのもつかの間、2年後にウィリアムはすでに議席まで失ってしまいます。
ウィリアムはすぐに憲法改正をうたう新聞『The Constitution』の発行を開始。デモなどを扇動し、あの手この手をつかって保守派政府を転覆させる活動をはじめます。アッパーカナダの乱を起こしたのはその翌年のこと。けっきょくアッパーカナダの乱は、主導者の間で作戦について意見が合わず失敗に終わっていますが、ウィリアムはその後も命がけでリフォームに力を注ぎます。教会や裕福な投資家たちばかりに富や特権が集中し、トロント市内の道路さえ整備されていないことなどを糾弾、税制改革、民主主義の政治を主張した彼はアメリカからの移住者に多大な支持を得、やがて市議会にカムバックします。
しかし、歯に衣着せぬ発言がたたってウィリアムは政敵から命を狙われ、議会を「きちがい集団」と呼んだことで、とうとう投票によって議会から追放されてしまいます。そこで、当時ウィリアムを英雄視していたアメリカにしばらくの間避難するのですが、けっきょくそこでも新聞紙上で有力者を過度に批判したために、違法行為を犯したとして刑務所行きに。それでも、アメリカで刑期を終えてトロントに戻ったウィリアムは、再び政治家として迎え入れられ、1858年まで政治活動を続けています。
1861年、ウィリアム・リヨン・マッケンジーは卒中で倒れ、マッケンジーハウスの3階にある自分の寝室にて激動の人生を終えました。
私生活のほうでは、妻イザベルとの間に13人も子どもがいたにもかかわらず、破産したり引っ越したり命を狙われたりと、家族のほうもたいへんな試練にさらされていました。アメリカ逃避行中にイザベルが病気で倒れたのも不思議ではありません。それでも、過去にビジネスや政治がらみで仲違いをしたり絶好したはずの友人たちに助けられ破産の危機を乗り越えたというウィリアムは、何か人を引きつける力があったのでしょうか。
マッケンジーハウスも、一時はケンカで絶交状態となっていたレズリー家が、家を買う資金を募ってくれたために手に入れることができたものだそうです。
ところで、マッケンジーハウスの幽霊お払いは、霊が悪いことをしないようにと1960年に英国教会によって行われたそうで、CBCテレビがその様子を記録しています。
トロントの心霊スポットや幽霊屋敷にご興味のある方は、こちらをご覧ください。http://www.torontoghosts.org/index.php
トロントとオンタリオ州の幽霊リサーチ学会、The Toronto and Ontario Ghosts and Hauntings Research Societyが管理するウエブサイトで、いろいろな情報やエピソードが載っています。
≪著者プロフィール≫
三藤あゆみ
フリーランスライター/翻訳家。日本の高校卒業後イギリスへ渡り、後にトロントに移住。トロント大学卒(心理学、東アジア学専攻)。埼玉県生まれ。 |
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