Who's Who Canada−著名カナダ人を知ろう

レスター B. ピアソン
Lester B. Pearson(1897 〜1972)

第14代首相 国連平和維持軍創設の父

フリーランスライター  三藤あゆみ

カナダ最大の国際空港が“トロント・ピアソン空港”と命名されたのは1984年のこと。カナダの14代首相レスター・ボウルズ・ピアソン氏にちなんだものです。ピアソン首相は国連平和維持軍の提唱者として世界史にも名を残し、1957年にノーベル平和賞を受けました。亡くなってから40年近く経つ現在も「尊敬するカナダ人トップ10」入りするカナダ国民が誇る人物の一人です。

レスター・ボウルズ・ピアソンは、1897年、オンタリオ州ニュートンブルークで生まれました。父親がメソジスト教会の牧師であったため、一家は、ピタボロ、ハミルトン、オーロラなどオンタリオ州の小さな町を転々とし、ピアソン家の子供たちは転校を何度も繰り返す子供時代を過ごしました。メソジスト派の宣教師は、開拓時代以来、安い給料であちらこちらの僻地に派遣され「騎乗の巡回宣教師」と呼ばれていました。子供たちにとっても決して楽な生活ではなかったはずです。

1913年、レスターはトロント大学に入学します。在学中は成績優秀なだけでなく、スポーツ選手としても大活躍、大学野球、バスケットボール、ラクロス、ラグビー、ホッケーなど様々なチームでプレイしました。特に野球とラグビーではスター選手となり、野球のセミプロチームと契約をしたこともありました。大学のラグビーチームでは、無敵のクォーターバックと呼ばれ、敵チームのチアガールたちまでがレスターの登場を心待ちにしていたそうです。

また、後にオックスフォード大学時代にはアイスホッケーに夢中になり、イギリスのオリンピックチームでプレイするほどの実力を発揮しました。生涯ホッケー熱が冷めることのなかったピアソンは、首相時代、NHLのゲームを見るためにオフィスにテレビを置いていたそうです。それだけに、ホッケー界にもしっかりと名を残しており、NHLの年間最優秀選手賞は「レスター・B・ピアソン賞」と名づけられています。

トロント大学在学中に第一次世界大戦が勃発。レスターは、志願兵としてギリシアへ送られ、陸軍病院に2年間勤務することになります。衛生兵として働いた後、イギリス空軍The Royal Air Forceに志願、英国ヘンドンで訓練を受けます。しかし、卒業後の初任務で墜落事故にあってしまいます。幸い命はとりとめたものの、今度はロンドン大停電の最中にバスに撥ねられてまた負傷。幸か不幸か、レスターは病傷兵としてカナダへ送還となります。

カナダに戻ったレスターは、トロント大学に復帰し学業を修めます。そこから政治の道に入るまでは様々な職業を経ています。 シカゴにある肉のパッケージ工場や肥料製造会社でも働き、後に奨学金を獲得してオックスフォード大学へ留学。1925年にカナダへ帰国してからは、トロント大学で歴史を教えながら研究を続けました。そして大学で出会ったマリオンさんとの結婚。外務省からピアソンに声がかかったのはその頃でした。採用試験では、部門中、最優秀の成績を収めて一等書記官に任命され、外交官としての人生が始まります。

レスター・ピアソンは「彼は生まれながらの外交官だ」といわれました。たいへん勤勉で、複雑な問題や状況も迅速に理解し、はじめは敵意のある交渉相手の態度をも和らげたといわれています。イギリス、アメリカ赴任後、1945年に在米カナダ大使となります。国際連合設立会議への出席、カナダのNATO加盟の際の重要な仕事を成し遂げ、外務省での任務といえば残るは外務大臣の職しかないというところまで来ました。そこで、自由党から政治家として立ち、サンローラン内閣で下院の議席を得ました。

1952年には国連総会議長に選出され、朝鮮戦争の解決などに貢献しました。そして1956年の「スエズ危機」の際に、国際連合平和維持軍の前身となった第一次国際連合緊急軍 (UNEF I) 創設を提唱します。平和維持軍はカナダ軍によって導かれ、戦争が拡大するのを防いだことが評価されて、ピアソンは1957年にノーベル平和賞を受賞し「国連平和維持活動の父」と呼ばれるようになりました。

レスター・ピアソンがカナダの首相を努めたのは、1963年から1968年にかけて。自由党のスキャンダル、予算問題、カナダの国旗をめぐる論争などリーダーとして難題をつきつけられた時期でした。

「首相は八方美人でリーダー性がない」と批判する人々もいましたが、ピアソンは現在のカナダという国やカナダ人のアイデンティティとして挙げられるものをいくつも残しました。例えば、新しいカナダ国旗の決定(おなじみのメープルリーフ)、カナダ年金制度の導入、連邦政府が医療費の50%を負担し残りを州政府が負担するというシステムの導入、地方経済発展のための基金創設や、バイリンガル政策の強化を図るなどです。

何かにつけて「カナダ人のアイデンティティはアメリカ人ではないこと」などとからかわれるカナディアンですが、ピアソン首相が1965年の訪米の際に、反ベトナム戦争の演説を行い、北爆をきっぱりと批判し、後でジョンソン米大統領がピアソン氏の襟首をつかんで激怒した事件は、カナダ人の間で誇らしげに語り継がれる「違い」を象徴するエピソードとなっています。

ピアソンは1968年、71歳で政治から引退。 その後は、回想録を執筆しながら再び学界に戻り、カールトン大学でカナダの外交・国際関係について教鞭をとりました。そして、回想録がついに完成し出版された1972年に、まるでこの世での全ての仕事を終えたかのように、その生涯を閉じました。

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