|
Who's Who Canada−著名カナダ人を知ろう 「ジャック・カルティェ」
フリーランスライター 三藤あゆみ 今年の7月1日、カナダは143回目の誕生日を迎えました。さて、カナダ建国よりももっとずっと昔、セントローレンス川流域を「カナダ」と名づけ、それを初めて世界地図に載せたのは誰でしょう?カナダの市民権テストにも出てくるこの質問の答えは、16世紀に活躍したフランス出身の航海士/探険家、ジャック・カルティェです。 カルティェは、1534年、ヨーロッパからの航海士の中で初めてカナダ本土に上陸したとされています。モントリオール旧市街にあるジャック・カルティェ広場(Place Jacques Cartier)、ジャック・カルティェ川なども、もちろん彼に由来するものです。そうそう、カナダの地名ではありませんが、日本でも薔薇愛好家に人気の、ピンクで豪華な花をつけるジャック・カルティェ ・ローズも、彼の名からきています。 カルティェの最初のカナダへの航海は、当時フランス国王だったフランソワ一世の命令によるもので、大西洋北部を横切りアジアへの北西航路を発見することが主な目的でした。アジア市場へのアクセスと、東周りならインドのはるか向こうにあるはずの黄金の国への近道を求めていたのです。 カルティェは、大西洋岸からさらに西に進み、現在のプリンス・エドワード島やセントローレンス川を“発見”し、フランス語の地名をつけて地図を作成しました。生涯のうちフランスとカナダを3往復、50ヶ所を超える未知の湾を調査し、先住民のヒューロン-イロクワ族と交流したり、フランス人の集落を作って住んだりしました。 しかし、カリブ海のバハマをインドと勘違いしたコロンブス同様、頭の切れる航海士カルティェの“発見”にも、ひとつ大きな勘違いがありました。彼は「セントローレンス川を遡ると、そこは中国だった!」と思い込んだのでした。そして、新しい地図にフランス語で「ラ・シーン(La Chine)」と、自信満々に記載します。英語でいうと、「ザ・チャイナ」ということですね。ケベック州のラシーヌ運河やラシーヌ急流、そして旧ラシーヌ市はその名残なのです。 最初のカナダ渡航で出会ったイロクワ族の指導者ドンナコナや、フランスに連れて帰ったドンコナの息子二人についても、カルティェは、彼らを中国人だと思っていたといいます。 しかし、3度目のカナダ滞在では食料不足で厳しい越冬を強いられ、また、後から到着するはずのフランスからの移民団がいくら待ってもコロニーにあらわれないため、カルティェは結局フランスに帰る決意をします。帰路の途中、大西洋岸からセントローレンス河口へ向かう移民船と、ついに出会ったそうですが、カルティェは厳しい冬やイロクワとの不和に消耗しきっており、一緒にコロニーへ戻ろうと説得する移民船のリーダーを無視し、夜逃げしてフランスに帰国してしまったそうです。晩年はサン・ロマの自分の生家にて過ごし、そこで生涯を閉じました。 ところで、ハイウェイQEWをトロントからナイアガラ方面に走ると、ハミルトンとセントキャサリンズの間のオンタリオ湖に、朽ちた海賊船のような船が浮かんでいるのを目にしたことがありますか?ハイウェイ上からもよく見えますが、これは、ジャック・カルティェがかつて航海に使った船の中で一番大きなLa Grande Hermine号を実物大で再現したレプリカ船の残骸です。 この船は、1967年のモントリオール万博で展示され、その後は、ハーバーに浮かぶレストランシップに改装され人気を呼びました。しかし、船がもう古くなって使用できなくなると、陸に引き上げられて長い間雨や雪に晒されたまま、公園に放置されていました。それを、再び修復して使用しようと、オンタリオ州の企業家が買い取り、現在の場所、ジョルダンハーバーまで持ってきたのです。ところが、2003年に何者かに放火され、今のような哀れな姿に変わり果ててしまったというわけです。しかしそれでも、なんとなく風情ある風景となっているので、写真撮影に来る人が後を絶ちません。今度、QEWでナイアガラ方面へ行くことがあったら、あらためてLa Grande Hermine号を眺めてみてください。 ジャック・カルティェ物語のビデオクリップ
|