Who's Who Canada−著名カナダ人を知ろう

処刑後120年以上経つ今も国会を騒がせる政治家
ルイ・リエル Louis Riel
(1844年〜1885年)

三藤あゆみ(フリーランスライター)

カナダ建国の激動の時代を生きたルイ・リエルは、カナダ人ならこの人の顔と名前ぐらいは知っていないとね(はず・・・)、といった人物のひとり。しかし、史上の人物といっても、今だに彼はカナダ社会や国会を騒がせ、英系、仏系、先住民間の対立にもときどき油を注ぐ存在となっています。

リエルは、先住民メティ(開拓時代のヨーロッパ人とカナダ先住民の混血を先祖とする人々)の権利と安住の地を守るため建国当初のカナダ政府に立ち向かったレッドリバーの反乱やノースウェストの反乱の指導者として、また連邦政府の父として知られていますが、国家に対する大逆罪と殺人罪で絞首刑による最後を遂げています。

先住民やフランス系カナダ人の間では彼を英雄視するのが多数派ですが、英系カナダ人の中にはいまだにリエルを「気の狂った反逆者」と呼び感情的になる人がいます。彼の処刑は正式な判決により下されたものですが、本当に有罪だったのか無罪にすべきだったのかという論争は21世紀に入っても続いており、ルイ・リエルを無罪にし「ルイ・リエル・デー」なる国民の休日を作るべきという法案が何度も提出されています。

2003年には国営放送CBCがリエル裁判のシミュレーションを放映し、その後、視聴者が陪審員なら有罪か無罪どちらにするかという投票をネット上で行いました。これはまだ記憶に新しいのですが、投票結果は「無罪」が87パーセントを占め、翌日の全国紙の一面に結果が掲載されていました。

ルイ・リエルはどのような生涯を送ったのでしょうか。

リエルは、1844年、現在のマニトバ州内にあるレッドリバーコロニーで生まれました。一家は湖畔の丸太小屋に住み、父はメティの指導者、母はフランス系カナダ人でした。リエルは子供の頃から賢く学業の成績もよく、13歳から聖職の道を目指して勉強していました。しかしカレッジ在学中に父親が亡くなったのをきっかけに学校を中断。その後修道院で勉強を再開したものの、今度は規律違反をして退学に。しばらくの間モントリオールの叔母のところに身を寄せると、法律事務所で働きはじめ弁護士になる勉強を始めました。すでに学生時代から、波乱万丈な人生を送る兆しが見えます。

モントリオールで法律関係の仕事をしている頃、フランス系の女性と大恋愛をし、婚約。ところが彼女の両親は娘がメティと結婚することに大反対し婚約破棄という悲しい結果になってしまいます。法律関係の仕事に熱意を持てずにいたところに失恋がかさなり、すっかり人生に行き詰ったリエルは、ケベック州を離れることにしました。

アメリカにしばらく住んだ後、数年ぶりに故郷のレッドリバーに戻ってみると、カナダ政府が、レッドリバーを含むルパートランドと呼ばれる広大な土地をハドソンズベイカンパニーから買い取ろうと動いているところでした。メティの集落には、カナダ政府が自分たちから土地を取り上げ全てをコントロールするようになってしまうのではないかという不安と緊張があふれていました。

広大なルパートランドで平和に暮らし、バッファロー狩猟を中心とした生活を営んできたメティにとって、土地の権利はさながら、バッファローの生息する土地や自然が考慮なしに開発されたり、行動範囲が制限されたりすることは死活問題でした。

状況を知ったリエルは住民を集め、東部からの新移住者を説得しようとしましたが、やがて臨時政府を立ち上げカナダ政府と交渉を試みました。そして、土地の調査や測量のためカナダ政府が派遣した代表が集落に入るのを妨げる行動を起こしました。

これが、レッドリバーの反乱(Red River Rebellion)と呼ばれる一連の事件ですが、先住民対カナダ政府の戦争には発展せず、無血でマニトバ州の基礎となる自治政府が設立されたのでした。

「戦争がなかったので無血」とはいっても、ルイ・リエルの臨時政府は、身柄を拘束していた英系のトーマス・スコットという人物を処刑してしまいます。カナダ政府側から見れば、それは殺人事件にすぎませんでした。銃殺を実行したリエルに対するオンタリオ州民の怒りがあまりにもエスカレートしたため、リエルはケベックに逃亡し隠遁生活を始めますが、指名手配が発表されたり命が狙われるようになったため、さらに遠くアメリカへ逃れました。

そんな状況であっても、リエルを指導者と仰ぐメティやフランス系カナダ人の一部は、彼に忠誠を誓い、帰りを待ちつづけました。リエルを下院議員に選出することもしました。そうはいってもリエル本人はオタワへ行って国会議事堂に顔を出したら自殺行為も同然なのを知っており、カナダへ戻る気配を見せませんでした。

リエルは、アメリカ中西部に住む間に結婚し子供も生まれます。ふたたび信仰心に火がつくと、今度は「自分は神が使わせた北米におけるカトリックの新預言者である」と宣言するようになりました。人々はリエルが精神病にかかったと思いましたが、それでも彼はモンタナ州の高校で教鞭をとり続けていたようです。

そうするうちに、サスカチュワンのメティから、カナダ政府が彼らの土地を奪おうとしているので戻ってきて助けてほしいというせっぱつまった連絡が。リエルは使命感に駆られ、オタワに請願書を提出しました。しかし、はっきりとした回答もなしに時間稼ぎをする政府にとうとうしびれを切らしたメティたちは、再びリエルの指導により反乱を起こし、サスカチュワンに自治政府を立ち上げたのです。

そして、1885年の3月、リエル率いる約300人のメティとノースウェスト騎馬警察隊が衝突する、ノースウェストの反乱が起きました。

ノースウェストの反乱では、レッドリバーの時よりもさらに大勢のメティが集まり、前回同様、カナダの支援軍が僻地まで時間をかけて旅する間に、どんどんメティ兵を補充し攻撃を進め現地にいる敵をかたづけてしまおうという計画でした。ところが、その当時すでに太平洋鉄道がかなりのところまで伸びていたことをリエルは考慮していませんでした。カナダ政府は8000人の軍隊を直ちにノースウェストに送り、メティ軍は追い詰められて降服を余儀なくされました。

降服して逮捕されたリエルは裁判にかけられます。裁判中リエルは2度にわたって、自身の行動を弁護しメティの権利を守るための演説を行いました。しかし、イギリス系とスコットランド系プロテスタント6名で構成される陪審に裁かれ、1885728日に始まった裁判はたった5日で結審となります。

陪審は有罪の判断を下したものの情状酌量を勧告。リエルの弁護士は、心神耗弱を理由に弁護を展開しようとしたところ、リエルは「理性ある存在としての尊厳もなく生きながらえることなど意味がない」として死刑判決を受け入れたそうです。

リエルは、処刑の日が近づくにつれ、やはり精神的に病んでいたという証拠を提供しようと再審や上訴請求をしたという記録もありますが、結局1885918日に絞首刑に処されました。

ところで、ノースウェストの反乱の様子は、1940年代に制作されたゲイリー・クーパー主演の映画『Northwest Mounted Police (邦題:北西騎馬警官隊)』の題材にもなっています。映画では騎馬隊やアメリカから駆けつけたシェリフが主人公なので、リエルとメティ軍は悪役です。当時のことですから差別的な描写もあります。そのためか分かりませんが、現在カナダではこの映画のDVDは手に入りにくいのですが、日本ではテクニカラーを使ったアメリカのクラシック映画として映画マニアに人気があり、ネット通販などでDVDが販売されています。

カナダではその後、リエルを主人公としたオペラやテレビ映画、ビデオなどが制作され、(学校にもよりますが)歴史の教材にも使われています。

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