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特別寄稿 特別寄稿 「ブラジルの思い」 Nachi Canada Inc. 島津 公夫
小生とブラジルの出会いは大学に始まる。大学受験当時は大学紛争の真っただ中。滑り止めで受験、合格した私立の外語系の大学に入学。生涯を通じ、選択して良かったと今更感慨深く思っている。 最初に強烈な印象を与えたくれたのが文化人類学を受け持つ松本教授であった。新入生の合宿(滋賀県の近江八幡であったと記憶している)ガイダンスで、「諸君は外国語を覚え、外国語をしゃべるために大学にきたのではない。外国語を学び、それを道具として駆使し、何を志すか?何を追及するか?である」と。小生にとって実に新鮮な話であった。 その教授はブラジルのインディオ社会を研究するため、何度かブラジルの奥地に行き、原始的人間社会構造を研究。当時では非常に斬新的な思想を持っており、外国語大学としてはユニークな発想を持つ教育者であった。この人との出会いから大学生活が始まり、終わったといっていい。 英語(必須)、ブラジル・ポルトガル語(専攻)、スペイン語(第2外国語)そして、地域研究を通じてかじった文化人類学は会社に就職しても生きた。言い換えれば、それらを生かす道を選び進んだのかもしれない。ブラジル・ポルトガル語の習得、ブラジルという地域、歴史、文化、国民性の理解。 在学中、「蒼茫」(石川達三著)、「アマゾンの歌」(角田房子著)などブラジルに移住した日本人についての文献を特に興味深く読み、大学ゼミでの「地域研究」グループで日本復帰前の沖縄と復帰後の沖縄に2回合宿。沖縄の各地を現地の移住事業団の協力を得て、土さ周りをした。ブラジルに移民した人数が日本で一番多い県ということ、そしてブラジルに多くの親類縁者が多いことなどの理由から、「ブラジル紹介の夕べ」と題して地勢的説明、政治・経済・社会など部門ごとに担当を決め、紹介した。当時の沖縄の人達との交流は今でも忘れない。 大学4年の夏、就職活動に熱心でなかった私に当時ゼミの先生であった友田教授の紹介を通じて現在の会社を知り入社試験を受けた。希望通り入社できた訳だが、将来の希望はやがてはブラジルで仕事をしたいというものだった。しかし、就職したその年に会社として最初に設立した海外生産販売会社であるブラジルに赴任するとは夢にも思わなかった。入社したばかりの担当レベルでは海外赴任手当の規定も何もない状態。ポルトガル語がある程度解るぐらいでの海外駐在であった。設立したばかりの会社であり、かつ少ない人数の中で決まった業務はない。事務機器の購入、生産部品、完成品の発注・輸入、売掛金管理、集金業務、日本人技術者と同行しての通訳、とにかく何でもした。周りは当然ながらポルトガル語の世界、英語も日本語も役に立たない世界であり、帰国するまでの4年間は今思うと人生の中で一番勉強した時間であったと。 その後、本社の国際営業部に籍を置き、韓国、欧州方面の輸出を担当。豪州・シドニー駐在、ドイツ・デュッセルドルフ駐在を経て、再度、今度は現地の社長としてブラジルに赴任することになった。この滞在期間が8年に及ぶとは全く考えてもいなかったが、充実した年月を送ることができたのも現地の日系の人、ブラジル人の協力・支援があったからだと心底思う。改めて、感謝の意を表したい。 欧州から直接ブラジルに異動することになったのだが、小生としては希望していた赴任先であり、打診されたときは「いよいよ来たか」という思い。しかし、異動した時は「こんな酷い経済状況」とは露知らず大変な時期であった。当時はブラジルで初めて労働党出身のルーラ大統領が当選確実の最中であり、社会・経済不安を予想した外資系会社がブラジルに投下していた外資を回収し本国に戻していったため、現地通貨レアルが大暴落。このような中で前年度に設備導入した本社への決済がスタート、輸入部品・完成品の決済などもあり手持ち資金がみるみる消失。すぐに資金繰りが逼迫し本社から借金する事で急場をしのいだ。
このころからブラジルの景気が回復、下落していたレアル通貨も回復し業績が急回復。全ての借金を返済し、生産機械設備の更新、工場の拡張・新規設備導入などから業容を大きくできた。今思うとこのホールインワンというラッキーが小生のブラジルでの8年間のビジネスを支えてくれた。今でも同僚から「お前は運がいいやつ」と言われているが「運も実力のうち」といいたい。
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